知られざる原発被曝労働―ある青年の死を追って―

知られざる原発被曝労働―ある青年の死を追って―

知られざる原発被曝労働 ―ある青年の死を追って―

著者 藤田祐幸 発行

岩波ブックレット №390 1996年1月22日

第1刷発行 定価 400円

 

 

 

 

知られざる原発被曝労働  ―ある青年の死を追って―
(本文 あとがき より)

 タクシーの運転手や炭鉱労働者の臓業的リスクと被曝労働者のそれとを、はたして同列に扱ってよいものだろうか。交通事故や落盤事故は、確かに統計的に整理すればある一定の確率で起こっていて、ある一定の割合で犠牲者が発生しているかもしれない。しかし、このような事故は、機械や装置や構造に故障や欠陥があったり、使用者側の意識に問題があったり、本人の不注意があったりして、それぞれ原因を特定することができ、また、こうした事故を防ぐことが原理的に可能である。

 しかし、原発被曝労働者の場合には、被曝すること自体が労働の本質でありノルマですらある。原子力産業はある一定の人数の労働者が死んでいくことを前提にして存在する。労働者の使い捨てによって成立しているといっても過言ではない。被曝労働者は、生きているかぎり発病の恐怖の中で無権利状態に放置され、その実態はあたかも現代社会の恥部であるかのごとく闇の中に隠されている。

 労働者の被曝による利益が、もしあるとするならば、それは労働者にではなく、会社側にある。原発が国策に従って推進されているのであれば、その利益はもっばら国家が享受することになる。ある行為の受益者と犠牲者とが人格的に分離していることは、近代の一つの文明論的な特徴でもあり、また伝統的な奴隷労働の形態とも一致する。

 これは、合法的であるが極めて不当な労働であると、私は思う。私たちは、この不当な労働に支えられた「便利で豊かな生活」に首までどっぷりとつかってしまって、電力を生産している現場のことを思うことがない。思わなかったのではなく、知ろうとしてこなかっただけなのかもしれない。

 原発老朽化時代を迎え、しかもその原子炉を廃炉にする日も近づいてきた今、被曝労働問題は一層深刻の度を加えている。しかもなお、世界全体が撤退してもなお、プルトニウム利用に執着することで、さらに過酷な被曝労働が増加することになるだろう。大量の放射性廃棄物は、世代をこえて我々のはるか遠くの子孫をまで、被曝の恐怖の中に追いやることになるだろう。

 一人の誠実な青年が死をもって我々に伝えようとすることの意味は、限りなく深く重い。私たちはもはや目をそむけるわけにはいかない。

 嶋橋伸之さんの死を無駄にせず、この悲劇がこれ以上繰り返されないことを願い、このブックレットを青年の霊前に供える。合掌。

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