会の歴史と集会の記録

報告 「東海臨界事故」緊急集会

これは中性子爆弾を住民に浴びせた「無差別殺人」だ
梅森 寛誠(宮城県・日蓮宗)
 実は私たち「原子力行政を問い直す宗教者の会」では、去る9月8日~9日、敦賀にて「被曝労働を問う」全国集会を催したばかりでした。シュラウド交換作業がたくさんの労働者に少なからぬ被曝を強い、漸減傾向にあった被曝線量を押し上げている事実(97年の福島Ⅰ-3の同作業で年間20~25ミリシーベルトを被曝した労働者が106人)等を問題にしました。

 ところが、それから3週間後に、これらの線量が吹っ飛んでしまうほどの被曝事故が起こるとは。東海臨界事故では、致死量被曝した現場作業員以外にも、「計画被曝」を含め社員の一部には、緊急作業時の職業人被曝線量値100ミリシーベルトを越える被曝を与え、至近住民にも(妊婦や乳幼児にも)原子炉並みの洗礼を強要しました。

 これらのとんでもない事態を前にして、私たちは急遽連絡を取り合い、お互い多忙な時期でしたが、11月15日~16日、東京での緊急集会と国への申し入れ行動を行いました。実態がここまで進んだ以上、私たちが確認し訴えていく最後の機会になるのでは、との声もあがる緊迫感の中での集会となりました。

住民被曝の実態

 本稿タイトルに付した、「中性子爆弾」「無差別殺人」は、東海村に生まれ住む藤井学昭さんの口から飛び出しました。彼は「宗教者の会」の結成メンバーで現事務局だが、この度は被害住民として登壇してもらうことになりました。彼の言葉は決して誇張ではありません。この国の原子力開発の発祥の地にあって、建物は何ら傷つけないが生命は破壊する「中性子爆弾」を炸裂させたわけです。核施設至近住民を予め選別した上での「無差別殺人」というわけです。この事故は、反原発を言わない反核の無意味さ(東海村には「平和利用」と「核兵器廃絶」の二つの看板があるようですが)をも改めて明らかにもしました。

 当日は運動会日よりで、白昼幼児が戸外で遊ぶ中で起こった、といいます。住民への通報はこの見えない「直撃弾」から2時間後、村の避難勧告はさらにこの2時間半後だが、原子力産業に勤めることを誇りに思わせられている村民には実感を超える事態だったようです。「臨界」の報に肝をつぶした氏は、勧告区域外ながら家族共々自主避難したが、その後科技庁の「50ミリシーベルト以下では心配ない」の暴言に接することになりました。一般人の線量限度は年間1ミリシーベルトであり、年間5ミリシーベルト以上の被曝で白血病が労災認定される基準からしてもあまりに暴力的だが、翌日、科技庁役人にこのことを突いたら「確率的影響」なる語を持ちだし、「直ちに心配するような知見は得られていない」と言い放ちました。米国ではスリーマイル島事故で一般市民の1ミリシーベルト被曝の基準でたくさんの訴訟が起こっているが、この国では被曝の状況に合わせて、いくらでも基準をかえるという「政治判断」で「安全」と言い「棄民」するわけです。

 集会ではこの後、東大の小泉好延氏に独自の調査から見えてきた「事故の事実」をお話してもらいました。氏は道路発掘調査に関わる中で真鍮の存在にヒントを見出し、事故直後から東海村に入って住民から5円玉を借り受け、この中に含まれる放射性亜鉛65を測定し、中性子被曝線量を推計しました。事故直後の最もきつい段階では測定が不充分で、後でホールポディカウンターを受けて「異常なし」となっても、半減期の少し長い亜鉛は被曝の証拠を、データ公開に消極的で事故を終息させたい行政に対して突き付けることになりました。「屋内にいたから大丈夫だ」という線量の値切りには「5円玉も屋内にあった」と抗することができたわけです。これらの調査活動を通じ、氏は住民を一人一人訪ねて被曝状況を説明するという、行政が怠ってきた貴重な役割を担うことにもなったようです。

 慶大の藤田祐幸氏は「事故と被曝」と題して、「町の真ん中に突然、制御棒も格納容器もない裸の原子炉が出現した」と表現しました。それ故「人間が接近できない、離れて見ていくほかない」情況で、「深夜の突撃隊」の大量被曝を強いた原子力安全委の決定には大いに批判的な見解を示しました。また氏は、事故当日テレビ局の報道センターに身を置く中で、その日の晩に周辺10キロ内の屋内退避勧告が発せられ自衛隊が出動し、報道関係者の多くが現場から去り、政府発表の情報のみが伝えられる実態を、恐怖感を込めて「戒厳令の夜」と紹介しました。そして、その辺りから原子力防災に関して言及することになりました。

  原子力防災を国に任せては危ない

 これまで多くの自治体は原子力防災の責任を国に求めてきました。が、この度の事故ではどうでしょうか。村がJCOの要請を受けて避難決定をする15時に、政府はようやく科技庁長官を本部長とする事故対策本部を設置。県の対策本部設置はこの1時間後で、首相を本部長とする対策本部は21時になってからでした。その間政府は、組閣人事に熱中していたせいもあろうが、事態の深刻さの認識も遅れ(科技庁は臨界情報を握っていたようですが)全くなすすべがない状態でした。政府が唯一行ったのは「安全宣言」を出したこと、という声も聞かれます。

 東海村村長の一歩踏み込んだ決定は問題があったにしろ、至近住民の被曝を一定程度軽減させた役割を果たしました。もし政府が一元管理を指向するのであれば、それすらもなし得たかどうかはわかりません。
 これらの経緯を踏まえれば、本来打ち出せるものではないはずだが、今、国の一元的管理を強化させる原子力防災に関する新法の法制化が急ぎ進められています。
 住民の安全面からも防災の基本からも逸脱したものです。私たちは翌日の交渉でも「新法制定で、住民を汚染から脱出させるより閉じ込める方向、住民の避難行動を妨げる方向に作用されるのでは」と強い懸念を述べましたが、「まず法律で骨格を決めたい」と答えにならない返答しか返ってきませんでした。

  集会では、小泉氏は「科技庁には見直し手直しではなく、安全規制(権限)を止めていただく」べきと明言しました。藤田氏は「鉄道や道路を封鎖するのではなく、列車で逃がすべきだった、バスを何台も出して逃がす計画が必要だった、結局うまくいかず止めようとなるのだが」と語りました。国の一元的管理が強化されれば、何もなし得ないに止まらず、これまで以上に情報隠しが進み、不要な被曝も強要されることが確信できたことが、多大な犠牲を払ったこの度の事故での貴重な「教訓」かも知れません。

 以上の論点を中心に集会と、科技庁、通産省、労働省への申し入れ・話し合いがもたれました。そして、憂慮される「2000年問題」が間近に迫っている段階でもあり、この国の原発・核施設の深刻な事故が頻発しそのレベルアップも進んでいる現状を認識すれば、まずはこれらの施設の停止と総点検をし、さらには原子力・エネルギー政策の転換のための真剣な検討をすべきと訴えました。紙面が尽きたこともあり、また、申し入れ行動の詳細の再現は頭がキレそうにもなるので、省略します。なお、「宗教者の会」では両日の要旨を声明文としてまとめ、各方面に提出しました。

「東海臨界事故」緊急集会(99,10,28)

緊急集会へのよびかけ

 深刻で衝撃の事故に、ついに私たちは遭遇することになった。臨界事故という、基本中の基本をいとも簡単に事業者自らが破った今回の現場は、またもや東海村であった。東海村の村民憲章には「わたくしたちは ゆかしい歴史と原子の火に生きる東海の村民です」とある。ここに示される通り、村の主要な沿道には核施設が立ち並び、村民の暮らしと接している。97年の旧動燃の爆発被曝事故に続き、この度の核爆発というべき臨界事故は、原子の火に殺される村民のみならぬ周辺住民の姿を誰の目にも明らかにした。

 この国の原子力開発の歴史とその後の展開、そして今日の状況を見るにつけ、この度の事故は、あらゆる意味に於いて問題が凝縮し象徴的にも思える。国は最初の商業炉を東海村に稼働させるに当たり、60年に大事故の損害を試算させた。1000万キュリーの放出を想定し、気象条件にもよるが、最大で3兆7000億円(当時)の損害額、災害範囲は首都圏を完全に網羅する200キロ圏、という数字が出た。これにあわてた政府は、急遽マル秘扱いとした。この国の原子力開発は最初から秘密裡に進められた。そして、この原子力に初めて予算をつけたのが中曽根康弘氏(元首相)だが、事故当日の小渕改造内閣の組閣人事(これによって政府の対応が遅れた)で、奇しくも二世の弘文氏が新たに科技庁長官に就任した。40数年を経て、親の過ちをそそぐべき絶好のまた最後の機会とも思われるが、就任インタビューで彼は、「安全なものだともう一度理解してもらう努力が必要」と語っている。この期に及んで彼は罪の上塗りをし、私たちを破滅に導こうとしている。世論調査では原発推進「反対」が「賛成」を上回ったが。

 事実、私たちは崖っぷちに立たされている。95年「もんじゅ」火災事故、97年東海再処理工場爆発事故に続き今回と、着実に事故のレベルアップが進んでいる。政府発表ではレベル4だが、実際には所外へのリスクを伴うレベル5というべき事態であり、後はない。もはや原子力からの撤退の道しか残されていないはずだが、政府はこの事故でさえも利用するかのように次なる方策を既に目論んでいる。「原子力防災新法」制定の動きだ。すなわち国の一元的管理の下で、権限が国に集中するかたちで住民避難命令措置をも講じる、というものだ。先の国会での矢継ぎ早の悪法制定との関連の中で、私たちが事実を知らされないまま(知ることを許されないまま)みすみす原子の火に殺される状況が生み出されようとしている。黙っているわけにはいかない。

 この度の事故に即して言えば、ウラン再転換施設JCOの会社としてのズサンな管理態勢の問題に矮小化させるような「世論誘導」をも感じる。これらを放置しチェックできなかったことは国も同罪であることを示している。しかのみならず、対応の著しく遅れた政府は、事故の火消し=地元自治体が要請した避難及び退避措置(これ自体が重大な問題を含んでいるが)からの解除、「終息宣言」「安全宣言」だけは迅速に行うという政治対処をした。その間、住民には臨界による中性子線のみならず、放射性ヨウ素他の物質を垂れ流しにすることによって、さらなる被曝を強要した。一方、臨界終息のための水抜き作業では、緊急時の限度をも越える、最高120ミリシーベルトの被曝があったことも後日判明している。

 私たちは、9月に「被曝労働を問う」全国集会を行ったばかりである。この時問題にしたシュラウド交換作業の実に4~5倍の被曝線量(福島Ⅰ―3を基準に)をこの度の作業で強いることになったのである。私たちはこの今日の状況を前に、一般人であれ職業人であれ被曝を強要せずにはおかない原子力の本質と実態を、はっきりと訴え、またその撤退を強く要求していかなければならない。未来のいのちをも殺され続けることを座視するわけにはいかないではないか。天は、私たちにこの時代この国に居合わせることを通じて、宗教者の本来あるべき姿を自覚させ、祈りと行動を促しているのだろうか。

 私たちは、緊急に東京で集会を開き、この度の事故の状況を整理し、国への申し入れ行動に臨みたい。共々に今日の危機を共有しながらも、今まさに原子力行政が進退の岐路にあることも見定め、私たちそれぞれの歩みをも踏みしめていこう。
1999年10月28日
原子力行政を問い直す宗教者の会
集会代表 藤井学昭

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